lotus column 我慢偏執 by Kousho
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 日蓮聖人のお言葉に「仏になる道には、我慢偏執(がまんへんしゅう)の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉(たてまつ)るべき者也」というご教示がある。

 広辞苑によると、我慢とは「自分を偉く思い、他を軽んずる事」であり、偏執とは「偏った見解を固執して、他人の言説を受け付けない事」とあるから、これに従えば「自己中心的な考え方を改めて、他者との協調性を重んじて唱題する事が成仏の直道(じきどう)」のように解説できるだろう。

 しかし、ここに問題が二つある。一つは「唱題の前に我慢偏執を除去する事が必須条件である」という順序次第があり、日蓮聖人は「唱題を行ずる内に自ずと我慢偏執が無くなる」とはお示しになっていない点。今一つは「我慢偏執」の定義である。

 前述の広辞苑によると、我慢偏執は「穏かな人間関係を阻害する要因」とも取れる。しかし、教主釈尊の金言に眼を転じると「常にここに在って滅せず」「ために無上の法を説く」というお言葉を「汝等(なんだち)これを聞かずして」と拒み、「我が浄土は毀(やぶ)れざるに」という仏説を「しかも衆は焼け尽きて」と逆らう。この衆生の態度こそが、正に「我慢偏執」の本質であり実態であろう。

 冒頭の祖書は自己と他人の関係をいうのではなく、人間と神仏の関係を重視した世界。つまり唱題には、仏陀の金言を無条件に受け入れる「絶対の信」が前提条件となる。

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