lotus column 尊ぶ姿、尊い姿 by Chijo
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 合掌が最近気に入っている。「お坊さんのくせに今さら…」と言われるかもしれない。だが実を言うと、近頃やっとそう思えるようになってきたのだ。

 以前、バリ島を訪れた時のこと、歩道のあちこちに花びらや米粒が散乱しているのを見かけ、不思議に思ったことがある。もともとこれらは神々へのお供え物で、バリのほとんどの家では、玄関を出た所にヤシの葉などで作った皿を置き、毎日その上に花やお米を供えるらしい。

 しかし玄関や門を一歩出れば、当然そこは歩道だ。お供え物は、しばしば往来の人に蹴散らされてしまっている。けれどもお供え物をした当の本人たちは、一向にそのことを怒ったり気にする様子もない。最初は奇妙な光景に思えたが、一度お供えした物がその後どうなろうと、ちゃんと神さまに届いていると割り切っているのだろう。その「こだわりの無さ」が、だんだん自然に感じるようになった。

 当たり前のように、日々の糧に感謝の気持ちを捧げる人々。観光客相手に小さな子供までもが商売や物乞いをしてるこの国だが、感謝や祈りといった気持ちは、日本人のそれとは比べものにならないほど生活の中に染みわたっている。実際にバリの町や村を歩いていて、つくづくそんなことを感じる場面に出くわした。

 帰国前日、ある店で土産物を買った。店主や従業員の対応がとても温かく、なんだか嬉しい気持ちになった。そして店を出る時、「ありがとう」の言葉と共に自然に手と手が合わさった。すると店主もすぐさま合掌し、ニッコリと微笑んでくれた。

 人が合掌した時、一番大切な気持ちが姿となって現れている。

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