地下鉄サリン事件やオウム真理教の問題が世間の話題の中心となっていた頃、既成教団または伝統教団を標榜(ひょうぼう)する仏教教団は、こぞって「オウムなど仏教ではない、宗教ではない」と批判をくり返していた。
しかし彼の教団は、ニーズに合ったコミュニティと明解な修行法という受け皿を持ち、目標とすべき強い指導者が確立されていた。その魅力に、既成教団はただ抗(あらが)っているだけに思えたのは私だけだろうか。
今から三十年ほど前、現代の辻説法という新しい試みを、「南無の会」として東京・原宿でスタートさせた「月刊ナーム」の前田編集長は、阪神淡路大震災に関して次のような意味のエッセイを書いておられた。
「ご利益(りやく)信仰を容認し、利用すらしていた教団は、いま自らが説くご利益の証(あかし)をたてる絶好のチャンスであるにもかかわらず、そのことを主張する教団は一つもない」
仏教本来の目的が、目先のご利益すなわち「無病息災」「商売繁盛」でないことなど、百も承知の方は大勢おられるはずだ。そして既成教団は、世代交代も手伝って今後も見切りをつけられていくだろう。
自身の心の内と行動を見つめ直すことを先とせず、慰霊(いれい)を先とすることで「ご利益」を得るなどという教えこそ、仏教とは言えない。
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