聖徳太子が制定された『十七条憲法』の中に「篤(あつ)く三宝(さんぽう)を敬え。三宝とは仏・法・僧也」という名文がある。国民が三宝を大切にし、なおかつこれを尊ぶ時、国土はその果報(かほう)により安穏なる浄土として顕現(けんげん)する。この切なる願いは、後に日蓮聖人も『立正安国論』で主張されているところだ。
さて、宝物とは元来、価値を有するものであるが、もし仮に人がそれに価値を認めなければ、誰がこれを尊び大切にするだろうか?
釈尊ご在世の頃は、仏・法・僧のすべてが尊い価値を有する存在であったに違いない。当然、大衆はこれらを篤く敬った。仏陀(ぶつだ)は一切衆生の主・師・親なるが故に、教法は成仏得道(とくどう)の道しるべなるが故に、僧侶は釈尊のご名代(みょうだい)として衆生に正法を伝授するが故に、みな衆生の信仰礼拝の対象でもあった……。
しかし、今日においてはどうだろうか?仏宝・法宝の価値は不変なるものとしても、はたして大衆が僧侶を宝物として、その存在価値を認めているだろうか?
日蓮聖人は 「仏宝・法宝は必ず僧によって住す」と指摘されている。今一度、僧侶がまじめに仏法を習い伝える時、すなわち「本来の使命」に目覚めた時、仏法は間違いなく「仏土を厳浄(ごんじょう)し衆生を利益(りやく)」するだろう。
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