lotus column 本音と建前 by Shougyo
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 私が頭を剃(そ)り、袈裟(けさ)を着けさせていただくようになってから、はや二十六年が経過した。思い起こせば、自分の生まれた家がたまたま寺であったというのが、僧侶になった直接的な動機である。

 しかし今では「頭を剃って本当に良かったな」と思うことも多い。今からちょうど十年ほど前にも、そう思える印象的な言葉に出会った。大きく言えば日本と諸外国との外交問題に関係し、小さく言えば私たちの日常生活にも関係することだ。

 例えば外交において、本音と建前が異なる日本人は、交渉相手の外国人から決して好感を持たれない。総論賛成・各論反対は洋の東西を問わないが、外国人にとって日本人のそれは、特に極端に見えるのかも知れない。

 また「隣の芝生は青い」をはじめとして「隣り蔵建ちゃ私腹立つ」「隣の貧乏、鴨の味」といった言葉は、他人の幸福をうらやみ本音で喜べない人間、または他人の不幸を建前でしか悲しめない人間を姿を表している。

 そんなことを考えている時、あるお上人にこんな言葉をいただいた。

「お坊さんというのは、本音と建前とをちょっとでも近づける努力をする人のことだ」

 この言葉こそ、宗教が道徳を越えた存在であることを言い表していると感じた。考えてみれば、お釈迦さまや日蓮聖人は、本音と建前が同じであったからこそ、正しい教え広めることに全生涯を傾けられたのだ。

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