仏教には、大別して「小乗仏教」「大乗仏教」の二つがある。自分一人の安心すなわち「悟り」を求める仏道修行を小乗ととらえ、自分と共に、また自分はさておいても他人に悟りを開いて欲しいというのが大乗の立場だ。そして日本でいう仏教とは、そのほとんどが大乗仏教にほかならない。
しかし実際には、仏教徒と自称する方々のほとんどが、大乗の教えを聞いているにもかかわらず、小乗の教えを実行していると言えるのではないだろうか?
一生懸命に修行しているように見えても、教えの内容をまわりにお伝えしようとする方には、残念ながらなかなかお目にかかれない。ましてや教えの内容を学ぼうともせず「そのような難しいことはお坊さんにお任せします」とおっしゃるのなら、それは小乗の修行以前の問題なのだ。
たとえ個人の安心を求めるにしても、僧侶と在家の区別なく「正しい教え学んで広める」という行動なくしては決して実現しない。日蓮聖人の「本より学文(がくもん)候し事は、仏教を究(きわ)めて仏になり、恩ある人をも扶(たすけ)んと思ふ」というお言葉は、まさしく大乗仏教における指針といえるだろう。
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