「諦(あきら)める」という言葉がある。今では「ギブアップ」「断念する」という意味で使われているが、もともとは「明らかにする」つまり「物事の理法を追求する」という意味だった。
いつ頃からこんな情けない意味になったのかは分からないが、仏法に対する誤った理解が原因の一つだろう。
もちろん、仏法を伝える側にも責任はある。諦めることが悟りにいたる必須条件であるにもかかわらず、むしろ菩薩道の肝要の一つ「常勤精進(じょうごんしょうじん)」とは逆に、途中で投げ出すという退嬰的(たいえいてき)な態度をとる結果を生んでしまった。これには、浄土系や禅系の虚無的な傾向が影響したことも否めない。
この「諦める」が再び本来の意味で使われるようになるまで、あきらめることなく?努力を続けよう。能力や経験によらず、誰もがみな仏さまの智恵と慈悲に導かれているが、求道(ぐどう)の心は決して失ってはならない。
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