「お題目を唱える」という修行には、大別すると二通りの方向性がある。
一方は自分のために唱えるお題目であり、もう一方は仏さまのために唱えるお題目だ。もちろんお題目の本質が変わるわけではないので、この方向性は唱題の行者の目的意識の相違から生じる。
つまり同じ「唱題」を行(ぎょう)じるにしても、「自分の諸願を成就するため仏さまに何かを要求する」という信仰と、「正しい法を広めるという仏さまの本願を成就させるため、私たちの方が仏さまの要求にお答えする」という信仰があることを、素直に認めなければならない。
そして多くの場合、唱題の行者を自認する人々は、前者に属する傾向が強いように思う。
志ある僧俗(そうぞく)全体が、いかにしてお題目を広く唱えていただく役に立てるか?いかにして仏さまの要求に応えうる信仰ができるか?この点を真剣に探し求めなければならない。
個々がその具体的な方法論を見いだせた時、その集いは真実に世間を利益(りやく)する「菩薩(ぼさつ)の集団」となるだろう。
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