lotus column |祈るということ by Shougyo
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 季候の良いこの月、中学や高校へ進学した子供たちも、新しい環境に少しは慣れた頃だろうか。

 受験戦争という言葉が生まれてから久しいが、晴れて合格の発表を目にするまでは、どの家庭においても様々に「祈り」の気持ちが高まったことだろう。

 例えば、ある家の子供には隣の家に同じ学校の同級生がいて、共に学年中の成績の一位を争っていたそうだ。そして校内の試験で自分が一位になると、赤飯を炊いて家族全員で祝ってくれるのだが、隣に一位の座を奪われると親に責められ、隣をねたむ言葉を聞かされていたとか。

 他人の失敗を望み、実際に失敗すれば安心感や優越感を感じる。逆に他人が成功すると、ねたみと劣等感にかられる。この子供がそんな人間に成長しても、何ら不思議ではない。

 相手は自分を励まし成長させてくれる存在であり、そこに感謝の気持ちがなければ、他人に対するいたわりや賛辞は生まれてこないだろう。感謝を欠いた「祈り」の中に、決して本当の安心は見いだせない。

 元日、ある家族が神社に初詣へ出かけた。

「あなた、何をお願いしたの?」
「新しい車が買えますようにって」
「私は宝くじが当たりますようにってお願いしたわ。当たれば車だって買えるもの」
「じゃあ僕も同じお願いにしよう」

 また別の家族が初詣に出かけた。

「まさひろ、神様に何をお願いしたんだ?」
「何もお願いしないよ。去年一年お世話になりましたって言っただけ」

 あなたの「祈り」はどちらのタイプですか?

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