仏さまの教えでは「善を修し、悪を断て」と言われている。また仏教の大前提は「因縁」という一言でも、表すことができる。すなわちものごとには必ず原因があり、結果があり、その間が縁によってつながれているのだ。
例えば田んぼにモミをまくのが「因」ならば、肥料や日光・雨が「縁」で、米が結果と言える。モミがなければ、肥料や日光や水がなければ、米という結果は絶対に生まれない。ならば「悪」という結果を断つためには、その原因となるものを正せばよいのだが、そう簡単にコトは運ばないのが人間の世界だ。
また人は「業」という結果を、生まれながらに持っている。時にこれは目に見える結果となって現れるが、その原因が前世にあったのか、それとも今世にあったのかは分からない。種をまいた翌年に実るや麦や、三年かかる桃や栗、八年かかる柿があるように……。それに、今は結果だと思うできごとも、それが予期しないまったく別の結果を生む原因ともなり得るのだ。
ところで私たちが新聞や週刊誌を読む時、たいていの場合「誰々がこんな良いことをした」という記事は飛ばし読みをし、逆に「誰々がこんな悪いことをした」という記事は、知らず知らずの内にすべてを読んでしまっている。
「自分もほめられたものではないが、ここまで悪いことは絶対にしない」
そう思って安心している自分に気づいたら、注意して欲しい。自らの「悪因」を見過ごし、思わぬ結果を招くかもしれないからだ。
原因を見つけることの苦手な私たちが「善を修し、悪を断て」を実践するには、まず自分の中の悪を正面から見つめる必要があるのではないだろうか。
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