lotus column |慈しみの第一歩 by Shougyo
what's new  今から15年以上も前、テレビで放映されていた「大岡越前」と交互に放映されていた「水戸黄門」は、驚異的な視聴率を誇っていた。当時は主演が東野英治郎氏から西村晃氏に交代することも大きな話題を呼んでいた頃。現在も安定した人気を持つこの番組は、次の黄門様に石坂浩二氏を迎え、なおも放映され続けるようだ。

 さて、実際の黄門様・徳川光圀(みつくに)公へと目を移してみる。実はこの人、親孝行の鏡と言われた人物で、毎年自分の誕生日にはおかゆと梅干しだけしか食べず、母親の出産の苦しみをしのんだと伝えられている。

 お釈迦(しゃか)さまの言葉をひもといてみると、こう説かれている。

「始め胎(たい)を受けしより十月を経るの間、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)ともにもろもろの苦悩を受く、苦悩やむ時無し(中略)すでに生まれて草上に堕(お)ちれば、父母の喜び限りなきこと、なお貧女(ひんにょ)が如意珠(にょいじゅ)を得たるがごとし」

 これは、生きとし生ける者が我が子に注ぐ慈悲(じひ)の形を、お釈迦さまが示された言葉だ。自分の体を十カ月も苦しめた者であっても、母はその子の誕生を心から喜ぶ。このような慈しみの心を、すべての人に注げという訓戒(くんかい)だろう。

 私たち凡夫(ぼんぷ)は、自分や自分の回りの者だけを慈(いつく)しむ場合が多い。しかし「お釈迦さまのようにすべての人々を慈しむような人には、とうていなれない」とあきらめしまうのは、まだ早い。

 他人を慈しむ気持ちはあっても、時にはどう振る舞えばよいのか迷うこともあるだろう。また自分を守ろうとするあまり、知らず知らずの内に他人を責めていることもあるだろう。

 例えば、何のてらいもなく老人には席をゆずり、体の不自由な人を気づかう。これらはささいなことかもしれないが、決して軽んじられる行為ではない。まずは簡単なことからでも、自分が他人に今してあげられることをする。これが、エゴを打ち崩すための第一歩となるはずだ。

what's newdiscourseseasontalesideadownloadlinkmyoabout "myo"site mapNOEC

HOME

Since 1999, Nichiren-shu Osaka Enlightenment Center. All teachings are opening up.