lotus column |これだけは忘れないで by Chijo
what's new  日蓮聖人がいかに経典に対し絶対的「信」を持っていたかは、その膨大(ぼうだい)な量のご遺文(いぶん)をひもとけば明白だ。それは鋭い言語感覚と文字=経典への深い帰依(きえ)をも意味する。

 今日現存する日蓮聖人直筆の著書・書簡(しょかん)は図緑も含めて500篇を越えるが、700年余もの歳月を経過しなおもそれらが現存していることが、まずもって驚異的だ。これは単に日蓮聖人が多くの書を著したというだけではなく、受け取り手がその直筆を特別な思い入れをもって、全人格的にとらえていた証拠だろう。

 一方、日蓮聖人の激しい布教姿勢については、現在も批判的な意見をぬぐい去れてない。それは「自らが率いる宗派だけが尊いと考える、排他・偏執(へんしゅう)・戦闘的人物であった」といった評価だ。しかし、数々の宗教が乱立していた鎌倉時代の社会状況を観ても、これは決して妥当な評価ではない。仮に日蓮聖人が新たな宗派を創設しようとしていたとしても、他宗の信仰が無益であることを指摘し、自らの提唱する教えが最勝であると主張することは、新宗教開創の必然的手段だ。それは浄土宗の開祖・法然上人においても同じであったし、ひいては仏教の創始者であるお釈迦さまがそうだったのだ。

 確かに日蓮聖人の主張は強烈だった。お釈迦さまの真意から外れる相手に対しては、指摘にとどまらず「破折(はしゃく)」であったし、かかげる経典は最勝にとどまらず「唯一」であった。しかしこの確固たる信念と行動が、極めて純粋な信仰姿勢の表れであったことを、決して見落してはならない。ただお釈迦さまの遺言どおりストレートに、時代・状況・学識によって変化する「人」につくのではなく、時代や何者にも左右されない絶対的な真理、すなわち「法」に帰依(きえ)するという姿勢を貫き通されただけなのだ。そして、このお釈迦さまの遺言こそが「法華経を広めよ」だった。

 ののしられようとも、石をぶつけられ杖(つえ)で打たれようとも、島にながされようとも、殺されそうになろうとも、それでもなお法華経ただ一つにこだわったのはなぜか。当時民衆の間で充分に浸透していた念仏信仰のほうが、より安全で効率のいい布教ができたはずだ。ましてや日蓮聖人は、若き日々を清澄寺という念仏の寺で修行され、その学徳ゆえに将来を有望視されていたのだ。あえてそのレールから飛び出て、苦難の道を選ばれたのはなぜなのか。その答えは、日蓮聖人の混じりっけのない純粋な宗教観=経典受容にある。

 膨大(ぼうだい)な経典をつぶさに研鑽し、お釈迦さま本来の教えとして見出だした法華経に対する確信の強さ。そして同世代に生きる人々、さらにはその子孫にいたるまでのすべての人々の心の苦しみを、必ずや救済しようという慈悲の強さ。この確信と慈悲の強さこそが、日蓮聖人の強烈なイメージの源であることを忘れてはならない。

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