盂蘭盆会 |菩薩道の歩み方 by Takochan
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施餓鬼会

 盂蘭盆会も彼岸会も、多くは「施餓鬼会(せがきえ)」という形をとっています。その本来の意味は、餓鬼の世界に堕ちたものに広く飲物や食物を供養することです。実際にお盆における供養の様子を見ると、今はお釈迦さまの教えと少し離れてきたように感じますが、それでもまだ布施の精神は活きています。しかしこれが「自分の家の先祖だけ、それも自分が直接知っている者だけ」とまでなってしまうと、形は施餓鬼会でも中身は単なる身勝手でしかありません。

image また、あまりに先祖供養にとらわれ過ぎるのも考えものです。そうなるとお釈迦さまの教えからまったく離れてしまい、成仏など望みようもなくなってしまうからです。これでは「ご先祖の成仏」という初めの目的も達せられないどころか、かえって先祖の邪魔をすることになりはしないでしょうか。

 日蓮聖人のご遺文を拝読しても分かるように、自分が成仏できない間はご先祖も成仏することはできません。くれぐれも布施の精神を忘れないよう注意が必要です。

敬愛と報恩

 自分の両親や祖父母のことを敬い、愛し、恩に報いようという想いを抱くのは自然なことです。また身内の人たちが亡くなった後、そうした想いが一層強くなることも自然なことです。お互い生きている間は色々といさかいや摩擦(まさつ)があったとしても、相手が亡くなれば雲霧(うんむ)のように恨みの心は消えてしまい、かえって良い想い出になることさえあります。こうした想いがあるからこそ、私たちには先祖を尊ぶ気持ちが起きるのでしょう。

image 人はまったく独りで生きることはできません。そして一つの家族にしても、まったく孤立して生活することはできません。その家族の系図をたどれば、皆が親せきとはいわないまでも、誰もが様々な人と様々な関係を持ちながら、活かし活かされているからです。そう考えると敬愛や報恩の念も、先祖以外の人たちにまで広げるのが、人として有るべき姿ではないでしょうか。

 友人に先輩や後輩、先生などから先祖や親せき以上の恩を受けることもあるはずです。血縁関係ではない人から受けた恩だからこそ、それだけ大切に感じることもあるでしょう。しかしそうした恩人が亡くなられた時、葬儀には参列しても、後々まで供養する人はあまりいないようです。供養の範囲を自分の先祖だけにとどめることなく、お釈迦さまが説かれた布施の考え方をもって広げていけたなら、これほど素晴らしい供養はありません。

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