UFO通信 |仏になったらどうなるの?(1) by Ufo

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 確かに、譬え話の効用というものは素晴らしい。何冊もの本を読んでも理解できなかったこと、何人もの偉い方々の話を聞いてもわからなかったことが、たった一つのごく短い譬え話で納得してしまうこともある。しかしこれも「当たれば」である。

 冷静に考えてみて、正鵠(せいこく)を射た譬え話ができる確率は、釈尊と違い、凡夫たる我々には非常に低いもの、とみておく方がよいと思われる。「当っているのかも知れないが、少し異なっているな」とか「普通に解釈するなら当ってないな」とか「どうこねくりまわしても牽強付会(けんきょうふかい)にしか過ぎないな」というような譬え話が結構ある。法華七喩(ほっけしちゆ)と同程度とまで言わぬとも、よく出来た譬喩(ひゆ)を考えるには、多方面からの検討が必要であろう。でないと、せっかくの有難い法門が間違って解釈されてしまう可能性だってあるのだ。

 よく聞く「山の頂(いただき)に至る道はいくつもあって、どの道を選んでも同じ山頂に着くのだから云々」というのも、経典の内容をよく検討しないから言えることであって、山頂に至る道は実は一つしかないことについては、法華の僧侶方ならよくご存知のことである。

 ところで我々は、檀信徒や未信徒の方達に、このことを納得させ得るものを持っているだろうか。戦後五十年の宗門信徒数の増減を見ても、新宗教や新々宗教がはびこるに任せていたのを見ても、あるいは科学的と称する様々な思想が人の心や社会を蝕むままにしていたのを見ても、少くとも宗門全体としては、有効な手段を持っていたとは言えないのではなかろうか。

 話を戻して、経典の内容を伝えることで納得させる方法が良いのか、また別の譬え話を考え出すのかであるが、別の譬え話を持ち出しても、恐らくこの場合は効果あるまい。すべての道が頂上まで続いているかどうか、譬え話をいくら出しても一種の水掛け論のような議論に終ってしまい、何の結論も出ないだろう。となれば、明らかな典拠を提示する方が良い。

 ただし、仏典や日蓮大聖人が遺して下さったものを使わせて戴くとしても、補足は必要になろうし、現今我々の身の周りには、様々な宗教や思想があって、それらについての検討も必要であろう。

 例えば、自然科学の世界では「科学と宗教の対立」などとよく言われるのだが、ここで言うところの宗教とは具体的にはキリスト教であり、仏教は自然科学との深刻な対決を経験していない、少くとも、我が宗門はそうである。従って、仏教や日蓮教学と、自然科学に隠された思想とが矛盾するかどうかも検討されたことがなく、実のところよくわかっていないのではないか。

 個人としては、こうしたことも整理済みだという方がおられるに違いないが、宗門全体としては、とても自然科学の位置付けが万全になされているとは思えない。江戸期までの、細々と流れ込んで来たのはさておくとしても、明治以後すでに百年以上も経っているのに……である。

 むしろ近頃では、自然科学自体が見なおされ、反省がなされている程である。その自浄作用がうらやましいましい、とは書き過ぎであろうか?(つづく)

〈H7.9/25初出〉

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