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 逆に義理が要請する行動が「善」、人情が要請する行動が「悪」というような場合は、一体どうするのだろうか。

 ここで両者の要請する行動について、これまた便宜的であるが、善・悪という価値を考えあわせて整理してみると、以下のようになると思われる。(イ)義理が要請する行動も、人情が要請する行動も、ともに善である場合。(ロ)両者ともに悪である場合。(ハ)義理が善で、人情が悪の場合。(ニ)義理が悪で、人情が善の場合という四つである。

 煩瑣(はんさ)の謗りを覚悟で書けば、(イ)と(ロ)が先に書いた一つ目の「一致」する場合に当り、(ハ)と(ニ)が二つ目の「相反」する場合に当る。そして、この中で目出たいのは(イ)だけであるが、健さんの映画でクローズアップされていたのは(ニ)である。しかし、これだけが世の中のすべてであると思ったりするのは「資本家=悪・労働者=善」という図式とよく似ており、まことにくだらぬ現実認識だと思う。ひょっとしたら、昔なら武家がほぼ一手に引き受けていた「公」に、一般の人間がたずさわるようになってから、公に持ち込んでしまった「私」のせいで「公=悪・私=善」という図式が目立つようになったからかも知れない。

 公と私をきっちり区別し「公のためには私を犠牲にすることが美徳である」と幼時から教え込まれていない者が公の場に立った時、どういうことが起きるかは火を見るより明らかである。あるいは、いわゆる人情が希薄になって来た頃でもあり、止むに止まれず人情を持ち上げる結果になってしまった、というところなのかも知れない。

 ところで、義理と人情のどちらが行動する上で善い「動機」となるかで、事の是非を論ずることも可能である。たとえば藩や公儀(こうぎ)のために、人情(私情)を犠牲にすることが武士道であったとすれば、武家政治などは「公=善・私=悪」という傾向が強かったのかも知れない。だが、これも硬直した処(しょ)し方に陥(おちい)りやすく、いずれうまくいかなくなる可能性が大きい。

 とすれば、行動の結果や影響を見て善・悪を判断する方が、物事の進め方としてはより良いだろう、ということで先の四つに整理したわけだが、こうなると「世の中は義理と人情」という言い方も、それほど素敵なものではなくなってくる。

 「行動規準に何を選ぼうが勝手だ」という意見もあろうが、それも程度による。なろうことなら、常に法華経と日蓮聖人のご遺文に範をとるのが、あるべき姿であろう。とすると「義理か人情か」ということは、ほとんど問題にしなくて良いのではなかろうか。先に条件つきで書いたように、善・悪の問題でさえけっこう難しい問題だ。法華経やご遺文に照らして、よくよく考えなければならない問題なのだ。

 我々の常識では善と見えても知らずに悪をなしたり、悪と見えることが実は善であった、ということなどは、よくあることである。愚僧などなまけ者であるから、善・悪の問題だけでも大変なのに、それ以上に義理か人情かで思い悩むのはいやである。恐らくお釈迦さまも、こういうのは「妄想」の類に入れておられるのではなかろうか。

H5.2/25初出〉

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